話し吐き出し泣き出しそれでたしかに新しい日がはじまる

本当はシンプルなもの。原因はみんながみんな誰かよりも良い思いをしたいことにある。誰もあいつには負けたくないし、誰も見知らぬ誰かより劣っていたくはない。それは複雑怪奇なものでなく、とてもシンプルなもの。それならどんな言葉も五本の指で数えられる。シンプルだと知っていられることは幸せなことだ。目前の壁を見て、隈なく調べて抜け穴を探さなくて済む。壁を見れば壁のないところまで歩くだけだし、乗り越えられないなら体をぶつけるだけだもの。どうしようもない。それは僕だって分かってる。君だって分かってる。本当に分かってる。そんなにモノワカリが悪いわけでもなし。君が男なら女にもてたいだけだし、女にもてないことを諦めているだけだし、自分をうまく表現できないでいるだけだ。君が女なら、男にもてたいないだけだし、男にもてないことを諦めているだけだし、自分をうまく表現できないでいるだけだ。残りの時間、人生の機微について大いに語りたまえ。
 明日もはじまる明日にとって僕は小指でひねられるほど微かな存在だから、酒を飲んで、タバコを吸って、眠る。明日はとてもシンプルだ。

誰の憧れに彷徨う

パンを食うためには働くなんてきっと低脳の言うことだ。馬鹿馬鹿しく、リアルでない。夢のために生きるなんてきっと、現実的でなく、自己に没してしまう病気の一つだ。
完全に中庸な精神があるとしたら、そのラインに沿うことはどんなに困難なことで、どんなに安易なことか。それっぽく聞こえる言葉、それっぽく見える表情、心の底からくだらなすぎて生きるエネルギーが失われる。結局、何もしていないということは、何もしていないことと同じことなのだ。百の思考は一の言葉にも達しないのこかもしれない。そして、百の言葉は一の行動にも足りないのかもしれない。誰かを殺すほどの徹底さを僕は僕に求める。

昨日の夜のさよなら

日記を読んでいてひとつ。思考の癖のひとつに、正しくはこうではないか、とする癖があると思った。聞き入れた言葉をもう一度自分に問い正す。こうであるべきという事実、こうであって欲しいという事実、こうであったかもしれない事実、こうであるかもしれない事実、それらは全て事実ではなく、自己調和的な空想的解釈だ。事実を事実として受け入れることの困難さといったらないけれど、僕は老いていく。希望的観測によって事実を相殺することによって、弱い人はロマンチックに生きる。推するにそれはループ・オブ・どツボ。時間が堆積していくにつれ事実とロマンチック的希望の境界が薄れ、どれがそれかそれでないか分からなくなるだろうし、そもそもどうでもよくなるのだろう。おそらく、というよりも、僕は確信する。

熱いシャワーを浴びたら冷たいシーツに忍び込もう

誰にでも深い闇がある。
しぶとさと精子の濃さは比例関係にある
いい加減さと音楽は補完関係にある。
責任は自分にある。
今日は早く寝よう。

泥酔した日の次の日、朝の光は真実に見える。毎日が歯がゆさの中で流れていく。日常は生きる意味を喪失させる。貧困は日常を失望させる。ジャニスジョップリン、カートコベイン、ニックドレイク、27歳の死が、僕にとってどれだけ強く、正直で、無意味的理想であったことか。金にも困っていない。女にも困っていない。良い友達もたくさんいる。だけれども、彼らは強烈な欲望の具現者なんだなあと思う。

 最近あんまりいいことがないのでなんかいいことないかなあと周囲にもらしていたら「いいことは自分で作らなきゃ」的発言により一撃粉砕されるわけですが、本当は「いいことを作ろうしなきゃ」というのが正しいんじゃないかと。それならしかし、いいこと作るには何から取り掛かればいいのか、服を買うにも金がないし、髪型変えるにも金がないし、本を読むにも面倒くさいし、何か見つけるにも面白そうなこと見当たらないし。彼女はいないし、パラサイトシングルだし。もっと根本的なところからの見直しですか。どうしようもないことはどうしようもないんじゃないすか。

つーか、人が誰が好きだとか興味ないんですけれど。僕は僕にしか興味がないです。僕をを中心にして取り囲む世界と人と。善良じゃない人間が好きじゃないんじゃなくて、人間的じゃない人間が嫌いなんです。人間的はちゃんと徳を備えた人だから、善良じゃない人は人間的じゃないってことになるんだけれど、徳ってことのとても曖昧なこと、それぞれの人の都合でひん曲がる都合の概念であること、でも何か徳のような、自己都合でない、流動的だけれど大事な核心があることを忘れないでいよう。

君の黒い髪が少し長くなりすぎたなら

 結局彼女のせいだとすると、自分に自信がないからで、そして僕のせいにすると、自信がありあまっているからだ。複雑な理由に見えたけれど、一言で言うならば、そういうことだった。それはAのせいか、Bのせい、あるいはAとBのせいだった。だからといって何が変わるわけではない。どんな理由であったにしろ、変わろうとしなければ変わらないし、行動しなければその理由にいつまでも縛られることになる。どんな種類のものにせよ、過去の自虐的、空想的な理由に安住することは自我にとっての温もりなのだ。
 君は崖を挟んで積年の理由の岸に立っている。しかし崖の向こうへ、対岸へ向かいたいと考えている。そして君は崖を超えようとする。意思は十分にある。しかし実際には超えられない。なぜなら君が超えないからだ。それは複雑な理由に見えるけれど、一言で言うならば、そういうことだ。
 実際に失敗することもあるだろう。しかし強い意志があり、強い意志を行為したいなら、失敗など据え膳のようなものではないか。僕らはそれすらも恐れている。偏執的で嘘のような恐れをである。

あなたが見えない

混乱と欲望のせいなんだと思う。僕は迷いの中に落ちている。彼女は僕を理解できないだろう。朝のステレオから音楽が流れる。夜のソファにはずる賢い嘘と嫉妬が横たわっている。
 現在は、ただ目の前をずうっと走り続けてる。その先には誘惑的な死が待っている。空想の中には選択的かつ希望的生が浮かんでいる。観念的生と死は混ざりきる前が一番弱く美しい。
 僕は毎朝、城を見上げる。今日は真横に空を横切っていった。飛行機雲が。